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(文明交差点?)易経のフレーズを手がかりに探る交野ヶ原

皆様、易経をご存知でしょうか?

最近はあまり見なくなりましたが、枚方市駅の駅前でも、「易相」と机の上に看板を立てて、占いをしている人がいたものです。

私も、当時いい関係だった女性と歩いていて、試しに占ってもらったところ、「二人だけやといい関係やけど、子どもが苦労するよ」と言われたことがありました。彼女も今では二人の子持ちです。もちろん、相手は私とは違う男性ですが笑

さて、本題に入りますが、「易経」というのは、儒教の中で重要な経典と言われる「四書五経」のうちの一つで、古くから日本のエリート層が読んでいた書物の一つです。

例えば、大正という元号は、易経の中から選ばれたものでございます。元号は「四書五経」の中から選ばれることがとても多いのでございまして、平成の次の元号ももしかすると、易経から選ばれるかもしれません。

その易経ですが、最近では経営者の方などが判断の指針とするために学んでおられる方も多いとのことです。私も目下勉強中ですが、なかなか身についておりません。。。

その易経の中で、少し気になる一節を見つけました。

地天泰という卦のところで、

泰、小往大来、吉亨、則是天地交而万物通也

泰という言葉には相異なるものが「交わる」や「通じる」という意味があるとのことです。天と地、陰と陽、左と右といったようなものです。

先日、交野ヶ原で桓武天皇が行った、「郊祀」のお話をいたしました。

日本で初めて天神様を祀った交野ヶ原~桓武天皇の御心~

この中国大陸の歴代王朝の皇帝が行っていた祭祀は大きく2つありました。一つはこの郊祀であり、もう一つが封禅であります。

細かいところを議論すると、多くの学者先生に怒られそうなので、インターネットで確かと信じられるレベルのお話に止めておきますと

封禅という祭りは、天に対して感謝する「封」と地に対して感謝する「禅」とう二つの祭祀を一体とし、泰山の麓で行うものとのことです。ここで、「泰」という文字が出てまいりましたね。

では、郊祀はどうだったかというと、冬至の日に、都の南の郊外において天の神に祈り、夏至の日には北郊において、地の神に祈ったということです。

不思議なことに、易経においては、冬至の日は「陽が回復する日」=「一陽来復」として、非常に特別視されております。一方で夏至の日は特段名前などつけられていないのですね。

あくまで仮説なのですが、時代が下るにつれて、権力者の世俗化が進み、その権威を得るために、あえて、「天」というものを祀ることが重要視されていったのではないかと思ったりするのです。

まぁ、封禅も郊祀と並行して進められておりますので、一概には言えないでしょうが。。。

ただ、桓武天皇が己の権威を高めるために郊祀を行ったとすれば、長岡京は郊祀の場所、交野ヶ原の北に位置するということで選ばれたのかもしれません。

相異なるものが「交わる」と地として、少なくとも奈良時代後期には認識されていたであろう「交野ヶ原」。これもまた、「交野ヶ原」という文化圏に残されたミステリーの一つなのかもしません。

 

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