さて、弊プロジェクトですが、「天空の地上絵」というブランドが打ち出すように、空にまつわる伝承を中心にお話ししております。
ただ、「天空の地上絵」というブランドの概念って、もっと抽象的なもののような気もします。例えば、「千年の都」といえば京都、「天下の台所」といえば大阪、「霧の都」といえばロンドン、「音楽の都」といえばウィーン、「華の都」といえばパリ。港町といえば、神戸・横浜。
「天空の地上絵」という言葉で、この地域のことを思い出してもらうには、まず、地域資源の発掘からかなとも思っています。
ということで、今回は新しい時代・人物を取り上げます。
時は中世・室町時代後期、その名は蓮如上人
さて、中世というと、魔界村のような世界観を思い出す人も多いかもしれません。ただ、日本において中世というと、いわゆる鎌倉時代から江戸時代初期を指します。
この時代は、下記レポートも参照していただければと思いますが、いわゆる下克上、実力主義の時代でありました。
NHKの大河ドラマなどでよく描かれるのは、その実力主義の窮まった戦国時代です。その時代の主役は、武士であり、文字通り武力と知略で勢力を拡大し、天下統一の号令を出すことが山の頂上として扱われていました。
その天下統一に大きく近づき、本能寺の変で倒れたのが、皆様ご存知の織田信長でした。
2020年の大河ドラマ、「麒麟がくる」では染谷将太さんが演じられますが、初めて、明智光秀が主人公となる、作品での信長はどのような信長像になるのでしょうか。
http://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/preview.html?i=18073
その信長が一番手をこまねいたと言われるのが、仏門に入った僧兵たち、特に、浄土真宗の総本山であった、石山本願寺は武力行使だけでなく情報戦においても、信長軍と10年の長い歳月、渡り合ったと言われています。
その石山本願寺を築いた、浄土真宗、中興の祖である、蓮如上人と枚方のゆかりを見ていきましょう。
蓮如住まわば人が集う
細かい経歴は省きますが、蓮如上人は元々は京都東山の本願寺において布教されていました。「御文章」という蓮如上人が親鸞聖人の教えを説いた方法が非常に門徒の人気が高く、門徒の数も増えていったようです。
それを面白く感じなかったのが、鎌倉仏教である浄土真宗の先輩である、平安仏教の比叡山。僧兵が京都本願寺を焼き討ちにしてしまいました。
そういった勢力図から逃れるように、福井県の吉崎へと蓮如上人は移り住みます。門徒の力を合わせて建てられたお寺は「吉崎御坊」と呼ばれ、参詣者が多くまいり、何もなかった吉崎御坊周辺には、2年ほどで200件を超える世帯が集まる集落となったと言われます。
その後、吉崎御坊は放火されてしまいます。ただ、門徒の力で2ヶ月後には再建されてますが、次は加賀藩の政権争いに巻き込まれて行きます。
蓮如上人は自分がここにいては、闘争に巻き込まれることをおそれ、吉崎を後にします。
そして、若狭から丹後を超えて、摂津に入り、淀川を渡り、新たな道場としたのが、出口御坊(光善寺)でした。
蓮如上人は大殿堂建立の為、出口御坊を離れる
現存する光善寺のHPに、蓮如上人が布教したころの出口御坊の様子が語られています。
上人は六十一歳から六十三歳までの約三年間出口に在住されて、再び近畿を中心に各地への積極的な強化を展開されました。
出口御坊での報恩講には、大勢の人々が近畿をはじめ各地から参集し、その門前は市をなすほどのにぎわいであったと伝えられています。
さぞかしにぎわっていたことから、このまま、出口御坊が門前町になっていた可能性もあるかもしれません。しかし、そうはならなかった。
蓮如上人は出口御坊をどうして離れたのでしょうか?
下記、浄土真宗親鸞会のページではこのように語られています。
出口御坊は、参詣者であふれ、瞬く間に限界を超えてしまいました。真宗門徒が一堂に聞法できる大殿堂建立をと、希求する声が急速に高まっていきました。
つまり、蓮如上人の人徳故に、出口御坊、いや、もっといえば、淀川沿いではもはや場所がなかったということでしょう。
その後、山科本願寺が建立され、蓮如上人もそちらへ移り住まれました。
この蓮如上人の歩みから、私たちが何を学び取るかはまた別のお話しで。。。