令和元年度の日本遺産が発表されました。初の沖縄県からの選出もあり、来年の100件に向けていよいよクライマックスを迎えてきたと言えるかもしれません。
個人的には、沖縄県から、選出された
「琉球王国時代から連綿と続く沖縄の伝統的「琉球料理」と「泡盛」,そして「芸能」」が気になっております。
ですが、今回の登録で、最も交野ヶ原的インパクトがあったと言えるのは、こちら!
ん? 東北の日本遺産が、交野ヶ原と関係あるの?
と思ったそこのあなた。実は大アリなんです!!!!(ジョン川平風)
大仏に張り付ける金が出てきた涌谷町
涌谷町のホームぺージの文章を引用してみましょう。
日本で初めて“金”が産出されたのは奈良時代の陸奥国。現在の岩手県や宮城県を含み「みちのく」とも呼ばれるこの地が生んだ“金”は富の象徴のみならず、奈良・東大寺の大仏や平泉・中尊寺金色堂を彩り、祈りの対象として人々の心に光を灯し続けてきました。
詳しい説明は不要かと思いますが、奈良時代に金が算出されるまで、日本では金がなかったそうなのです。
そして、この金を探すように沙汰を発したのが、東大寺の大仏を建立した、聖武天皇でした。
しかし、今まで日本で産出されていないかった金を見つけたのはいったい誰だったのでしょうか?
もう、お分かりですよね、それこそが、百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)だったのです。
敬福が金を見つけたから、百済寺ができた
749年のこと、百済王敬福は当時、陸奥守を務めていました。一説によれば、百済の金が産出した土地の地形が涌谷の黄金山が似通っていることから、金を発掘できたのではないかと言われています。
このことが、聖武天皇にとっては天祐となり、その後、百済王敬福は河内守に任命され、百済寺が交野ヶ原の中宮に建立されます。
皆様ご存知の通り、その跡地が、今の百済寺跡でございます。
百済寺最大にして、最後の謎は「なぜ中宮に来たのか?」
2018年の3月3日に、「枚方歴史フォーラム」と題して、百済王氏や百済寺界隈の現状での学術研究の報告会が行われたのです。
その際、涌谷町の方もゲストとして呼ばれておりました。
このフォーラム、私も参加したのですが、最後のパネルディスカッションでの総括が印象的でした。
おおよその内容は以下の通りです。
ここまでの先生方の報告で、百済寺がこの場所にあったのはほぼ間違いがないと言えるようです。
ただ、最後に残るは、なぜこの場所に百済寺が建立されたのか。百済王氏はこの地を選んだのかという謎です。この点はアプローチを変えていかないといけません。
そう考えると、百済寺の最大のミステリーは「なぜ、この地にあるのか?」というところかもしれません。
涌谷町の日本遺産の「サイドストーリー」として、今後も掘り下げていければと勝手に思っております!
杉山 雅彦 2019年5月31日
宮之阪在住で、交野市星田の特養で働いている。杉山雅彦です。
今回のブログでも、自宅の近隣、百済寺、百済王敬福の事が、書かれて、またまた歴史的なロマンを感じました。宮之阪に住んでいる者として、毎月、月参りしてますし職場の極近くにある星田妙見宮にも月参りしてます。前回の返信メールでも、勤務先の特養の土地が、星田旭縄文居住区だし、メチャクチャ、歴史のロマンを感じます。今度、6月30日、星田会館で行われる、星田妙見宮・星田神社の佐々木宮司の講演会に参加しようと思ってます。交野ヶ原日本遺産プロジェクト応援してますよ!
伏見枚方市長にも、枚方市民として、『市長への提言』として、枚方市が発行しているハガキに、交野ヶ原日本遺産プロジェクトへの推進してくださいとハガキ送っておきます。是非とも、交野ヶ原日本遺産プロジェクトの成功、日本遺産の登録成就を願ってやみません。
管理人 2019年7月17日 — 投稿者
杉山様
いつもコメント、ありがとうございます。
日本遺産プロジェクトの応援、誠にありがとうございます。
来年、東京オリンピック2020の聖火リレーが枚方市にも来ますので、その際は是非、百済寺跡をコースに含めていただくよう提案書を提出予定です。
是非、杉山様の方からも広めていただきますよう、よろしくお願いいたします。
https://www.city.hirakata.osaka.jp/0000024962.html