いやー、いつになく、真面目な記事を3本(百済王敬福シリーズ3本)を投下したら、すごく疲れちゃいました笑
だって、3本目の終わり方的に、こりゃ、「百済王明信」の再考論にもいくんでしょ。アナキン→ルーク→レイ(あれ、娘違ったかな?)みたいな流れですよ。
ですので、今回の記事は、私の慰労記事になりますので、砕けて読んでください。実際、若干交野ヶ原はかする程度ですので、怒らないでね笑
で、今回取り上げますのが、三好長慶その人でございます。
三好長慶って誰?
信長以前に大阪、京都一帯を治めていた武将ということは知っていたのですが、本拠地が、飯盛山という、交野ヶ原のお隣、大東市のお城だったと聞いて驚き。
私も戦国時代の入り口はポプラ社の偉人伝と信長の野望だった口なので、信長・秀吉・家康の尾張・三河の生んだお三方をメインにした歴史観をもっておりました。
田中れいながお市の方だから、この画像を選んだというわけではないのであしからず笑
ただ、歴史は勝者が書いていくものでございまして、信長を強大に描いた歴史家がいたとすれば、本来は信長以前も戦国時代であり、よりスポットが当たるべきなのだと思うのです。
それにあたるべき、第一の武将こそ、三好長慶でございます。
とはいっても、信長以前に、五畿を治めていたということぐらいしか存じ上げてませんで、聞いた話だと城の石垣を作ったのも、三好長慶だったとか。
ちなみに、三好氏は元々、阿波国、つまり今の徳島県の出身でございます。
そういえばですね、昔、京阪枚方市駅から出ておりました、「あわひらかた号」という高速バスがありました。3年前に廃止となりましたが、結構便利だったんですよ。
「昨日の敵は今日の味方で明日の敵」和平と交渉を旨とした三好長慶
「無理に枚方と紐づけてないか」
いや、そんなことはないですよ笑
まとめると、三好長慶は、摂津の芥川城から飯盛山城を攻め落とし、元々飯盛山城を本拠地としていた安見氏が勢力を保つために、枚方寺内町を勢力下におこうとしたとのこと。
この際、枚方寺内町からは、三好長慶との交渉は、順興寺の実従が立ち、安見一族とは、油屋与左衛門等寺内有力住民三人が交渉に当たったとされています。
生き延びるための知恵ですね。窓口をわけることで持ち帰って、寺内町内で衆議にかけることもできる。
ただ、これは、三好長慶が「昨日の敵は今日の味方で明日の敵」という感覚を持ち合わせていたからであろう。
残念ながら、信長が枚方寺内町に足を踏み入れると、その油屋を焼き討ちし、順興寺も焼き討ちにして、枚方寺内町衆を屈服させた。
この信長論自体も、実は、書き換えられたものかもしれないという危惧もございますが、その後、信長は、同じく枚方は招堤の寺内町にも敵になるか味方になるかの踏み絵を踏ませています。
寺内町は交通の要所をつなぐネットワークでありましたから、一か所が倒れるとドミノになる可能性もあり、招堤は信長に下ります。
このことからも、三好長慶が天下布武ではなく、政治として国盗りを進めていったこともわかり、戦一辺倒の戦国とは違った醍醐味も見せてくれそうです。
晩年は、結構ドロドロしているので見たくないですが笑
もしよろしければ、署名活動もしているみたいですので、どうぞご覧ください!
https://www.awanavi.jp/soshiki/2/5661.html