【本記事は2013年に書かれたものを寄稿としていただいておりますので、肩書などや時系列などは当時のままです。】
【本プロジェクトの正式見解ではないですが、「まぁ、言いたいことはわかる」ぐらいの友好関係のご寄稿ですのでお察しください笑】
(以下寄稿)
10年ほど前に青年会議所の方と花火大会に関して、議論をたたかわせたことがあります。
その際、花火大会の意義についても議論いたしました。かの方はイベントとしての花火大会を見ており、私はイベントとしてのリスクを鑑みて、それでもやるべき意図があるのではないかと主張しておりました。
議論は平行線でした。しかし、その際の議論は意義あるものだったと思うので、まとめ直して、再掲しておこうと思います
くらわんか花火大会中止のきっかけは予算?それとも安全?
くらわんか花火大会中止のきっかけは主に2つあげられます。
それは、予算と安全でした。
当時の枚方市長であった、竹内おさむ氏が広報ひらかた2012年8月号の広報誌に寄せているコラムによれば、中止した直接的な原因は2001年におきた明石花火大会歩道橋事故だったそうです。
2001年の事故を受けて、警備体制などをより強化するもトラブルなどが続出しました。それを防ぐためには、予算を増額して警備を増員しなければなりません。しかし、これ以上予算を増額して警備を増員したとしても、安全が確保できないであろうという判断があったようです。
そして、2003年に枚方の花火大会は一旦ピリオドを打つことになりました。
予算と安全を超える意義はあるか?
近年では、ゲリラ的に枚方河川敷での花火が8月後半から9月頭にかけて開催されているようです。
ただ、単に「イベント」として復活しているのでしょうか。
それよりも、せっかく、復活途上の花火大会を再点検し、「なぜ、淀川か?」「なぜ、枚方か?」という、見過ごされがちですが物事の根本に迫る問いを自分に問いかけるタイミングであると強く思います。
そこで、枚方の花火大会の議論をしようと思うと、外してはいけないことがあります。それは、日本における淀川の特異性です。
淀川は2つの大都市を流れる日本唯一の川
淀川は日本一の大きさを誇る琵琶湖から流れ出す唯一の河川です。
滋賀から、京都、大阪へとさまざまな支流を持ち、大阪湾へと流れ込んでいきます。
日本の河川は下流域に大都市が広がることが常です。なぜなら、流域面積が広くなく、下流域に広がる平野に大都市が広がるためです。
しかし、淀川の場合は、少し特殊で、中流に京都、下流に、大阪という昔からの大都市を流れています。 それが、淀川の特殊性を生じています。
これは、流域に大都市を二つ持つということから、船運や街道が発達したという正の側面もあります
本記事ではあえて、負の側面も取り上げてみようと思います。
淀川にまつわるおどろおどろしい歴史
人口も多かったため、急な大雨や台風などで、不運にも流されていく人も多かったのでしょう。 他の河川であれば、都市部は下流域にあるため、流されていく人の水死体は海へと運ばれます。
しかし、中流域に大都市をである京都を持つ、淀川では事情が異なります。
水死体は、カーブを描く枚方、そして川を挟んだ向かいの高槻の河川敷に流れつくことも多かったようです。 それを証明するかのように、郷土史家の宇津木秀甫先生が高槻を中心とした地域に残る民話をまとめた『高槻物語』には「土左衛門」という話が伝えられています。 本来は、文章を楽しんでいただき、おどろおどろしさを感じてほしいのですが、今回は簡単にまとめておきます。
・江戸の頃、水死体が淀川の沿岸部に流れ着くことがよくあった。
・たいていの場合、身元がわからず、役所や警察も大変な苦労をするので、水死体を見つけた人は、そっと下流に流していた。
・一方で、とんでもない商売を思いつく商人もいた。
・その商売は、水死体を引き上げ、手押し車に乗せ、あたかも病人を運ぶふりをする。
・そして、武家屋敷の前で、「試し切りはいらんかね」と売り文句をいうと、武家屋敷の扉が開く。
・その後、水死体は武士の試し切りに使われ、持ってきた商売人たちは武士から礼金をもらう。
・試し切りに使われた水死体は商人たちによって、淀川に捨てられ、下流へと流されていく。 名も無き水死体を下流へ流すだけでなく、商売に使っていた人間がいたのかもしれません。
煌びやかな花火にこめられた本当の思い
日本全国に花火大会があります。有名な花火大会でも、その裏に歴史の非情さの中で残念ながらも亡くなった方々を慰霊する意味合いを持ったものが数多く存在します。
隅田川花火大会は1732年、徳川吉宗が将軍だったころに起こった飢饉で亡くなった人々の慰霊のために始まり、幾度かの中断を経て今に至ります。
1945年8月1日、あの戦争で起きた長岡空襲で新潟県長岡市は大打撃を受けました。戦争が終わって3年後の1948年、もう一度、街が立ち上げるきっかけとして始められたのが、長岡花火大会でした。
今でも、空襲のあった8月1日の午後10時半には「白菊」という花火が慰霊のために打ち上げられています。 有名どころだけでも、煌びやかな花火は過去の非情な歴史と結びつき、慰霊という意味合いがこめられています。花火大会の運営のモチベーションの奥底には大会の古今東西にかわらず、その思いがあるのでしょう。
言わずもがな、淀川の花火大会も同じです。
あの世に光を届ける「送り手」として
文芸評論家の小林秀雄は「歴史とは上手に思い出すことである。」と述べました。
花火大会の記憶は人それぞれでしょう。在りし日の父親に手を連れられた記憶、学生のころ友人たちとはしゃいでいた記憶、恋人と初めて2人で見た花火、子どもを連れて家族で見た記憶。 そういった「受け手」としての花火大会の記憶が重要なのはもちろんです。
一方で、枚方の花火大会は「送り手」から、淀川の歴史と鎮魂のメッセージを発信することも大事ではないでしょうか。「送り手」とは、花火大会の運営側に参加することだけを意味しません。花火を見ながら、亡くなった家族や友人、さらには災害や戦争で亡くなった方のことを思う。 その煌びやかさに心奪われて、「この世」を謳歌するだけではなく、その日だけでも亡き人々に思いをはせる「送り手」が増えれば、花火大会の「志」である慰霊や鎮魂の意味合いはより強いものになるでしょう。 夏の夜空にかがやく花火は「この世」だけではなく「あの世」も照らすものにしたいものです。
このブログでの一曲は、夜空に舞う花火、加藤ミリヤの夜空です。