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【アテルイ公演前の試論】アテルイが河内国で処刑された理由

本日、12月5日と明日、6日はひらかた肝高倶楽部の定期公演、「火怨の蝦夷 阿弖流為(かえんのえみし あてるい)」がございます。

私も5日の夜の部にお邪魔しようと思っております。

その支援の意味を込めて、改めて、新時代に向けた考察を書いておこうと思っております。

そもそもアテルイというのが誰なのかという説明は、過去のブログをご覧ください。

祝チケット完売! 師走の夜、交野ヶ原に陸奥の英雄・アテルイとモレが舞う!

アテルイの処刑地は、「河内国」でまちがいないようなのですが、場所についてはまだまだ諸説ありということです。

ただ、どうして、「河内国」が処刑場所として選ばれたのでしょうか?

ここからは、いくつかのキーワードとたっぷりと想像力を働かせて書いてみようと思っています。

奈良時代の死刑は基本は「見せしめ」だった

アテルイが処刑されたのが、西暦802年ということで、桓武天皇が平安遷都して、8年ほど経た頃でした。

法律などは奈良時代のものが継続して使われており、桓武天皇の後、嵯峨天皇の頃から、実質死刑が廃止されるようになります。ですので、802年の頃はまだ、奈良時代の法律を運用し、慣習もそのままだっただろうと推測しましょう。

調べると、奈良時代の死刑というのは、基本的に「市」で行われていたそうです。「市」というのは、要は市場ですので、買い物客や商売人など人が集う所です。

そこで、死刑にするというのは多分にして、「見せしめ」の意味合いがあったのでしょう。おそらくは罪状を読み上げ、「こんなことしたから死刑になった」とすることで、庶民への注意喚起と権力の基盤整備の意味もあったと思います。

アテルイの処刑の3年後、平安京造営中止と蝦夷征伐の中止

そして、時系列で考えると、西暦805年に平安京造営中止と蝦夷征伐という2大事業の中止を発表しました。

その翌年に桓武天皇は崩御していますので、最後の決断だったと言ってもいいのかもしれません。

その際、「徳政相論」といい、参議右衛士督・藤原緒嗣と参議左大弁・菅野真道に議論させたと言います。

詳細はウィキも参考にしていただけたらと思うのですが、若い緒嗣の意見が採用され、渡来系氏族出身だった菅野真道の意見が退けられ、2大事業は中止となったとのことでした。

この際、緒嗣が主張した一番の理由は、この2大事業のために、民や百姓が苦しんでいるということでした。

要は、平安京の祭祀だけでなく、経世済民もうまくいっていなかったということです。

アテルイの「見せしめ」処刑を平安京でしていたら。。。

歴史にイフはございませんが、もし、アテルイの処刑が平安京で行われていたらどうでしょうか?

そもそも、長岡京を10年で捨てて、平安京へ遷都した理由が、桓武天皇の弟である、早良親王の祟りを恐れてだと言われています。

早良親王は東大寺の別当で政治の世界から身を置いていたにもかかわらず、桓武天皇に乞われ親王となりました。しかし、長岡京で造営を担当していた、藤原種継の暗殺の疑いをかけられ、島流しの最中に憤死しました。

少し時系列は遡りますが、聖武天皇が奈良の大仏を造営したのも、相次ぐ感染症や天変地異などが祟りと思い、それを収めるためでした。今の私たち以上に、祟りとか怨霊には敏感なわけです。

もし、桓武天皇が平安京で処刑した後、何らかの感染症が流行ったり天変地異が起これば、それはアテルイの祟りとして、また都を移す必要が出てきていたかもしれません。

また、平安京を造営するにあたって、当時からその場所に住んでいた人々を使役していたとしたら、桓武天皇への忠誠心も低い状態だったかもしれません。そこで、見せしめの死刑などをすれば、いらぬ反発を招いたのではないかと。

もちろん、「穢れ」の意識等も出てくるかと思いますが、どうして「穢れ」を嫌うかといえば、それが、何らかの実害をはらんでいるからと考えると、上の2つの理由と同じかなと思って、その議論はおいておきます。

あくまで、可能性としてということは改めて書いておきます。

「河内国」が選ばれた理由は開けてたから?

そういった理由から、平安京で処刑できないと仮定して、次はどうして、「河内国」だったのかを推測してみましょう。

まず、確実に「処刑した」事実が必要でしょう。わざわざ、処刑に桓武天皇が立ち会ったとは思えませんし、何者かが同情して、アテルイやモレを逃してしまう可能性もあるやもしれません。

そのために、桓武天皇の選択肢としては、「かなり信用できる人間に任せる」か「それなりに人が見ている所で処刑をさせる」かのどちらかです。

ただ、桓武天皇自身は、自らの弟も獄に繋いでしまう所があったので、「かなり信用できる人間」がいたのか、いや、「信用」という概念を持ち合わせていたのか、そこは疑問符が残ります。

ですので、おそらく、「それなりに人が見ている所で処刑をさせる」という選択をしただろうと。

第一の選択としては、平城京の跡地で処刑。ただ、これは、さすがに桓武天皇もハードル高いかもしれないですし、遷都したとはいえ、寺社を中心に強い勢力を余計に刺激するかもしれない。

では、その次として考えると、五畿(山城・大和・河内・摂津・和泉)のうち、河内国が処刑の事実を民に知らせ、リスクを最小限にすることができると桓武天皇が判断したのではないかと推測するわけです。

まとめ:平将門とアテルイ

さて、いくつかの歴史的背景と多くの推測で、河内国でアテルイが処刑された背景を考えてみました。

日本を代表する、反乱者で最も怨霊として強いと言われる方が、アテルイのあと、150年後ぐらいに反乱を起こす平将門です。

この将門は今日まで祟りを恐れられ、東京都内一等地に首塚があり、神田神社では神様として祀られています。

で、あくまで偶然だと思うのですが、11月末、移転工事のため、首塚を動かすと、茨城県の将門の胴塚近くを震源とする地震が起きたとのこと。

https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_200075039/

何が言いたいかといえば、一度、その場所に鎮座させたら、1000年程度では到底払拭できない力がその場所に宿るのでしょう。

そこに骨があるか否か、歴史的事実があるか否かなどは超えて、そうした考え方というか、私たちの無意識に残る古層と向き合う。

そのためにも、ひらかた肝高倶楽部の演劇、見てまいります!

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