交野ヶ原 日本遺産 BLOG

【百済寺跡・京田辺バスツアー記念】桓武天皇と交野ヶ原と交野柏原

交野ヶ原の日本遺産認定を目指して、丸5年となりますが、一足早く、百済寺跡が京都の日本遺産と絡んでバスツアーを開催するとのこと。

 

この日本遺産は、「お茶の京都800年」ですね。

宇治市や八幡市も入る京都をメインとした日本遺産。枚方市駅と樟葉駅発着ということで、枚方の方々にアピールする狙いでしょう。

せっかくですので、この企画に乗じて、私たちのプロジェクトのきっちりアピールしておかんと行けませんね。

交野ヶ原の日本遺産ストーリーの主演ともいえる、桓武天皇と京田辺や京都は切っても切れない関係にあるのです。

桓武天皇が天神を祀った交野ヶ原

繰り返しになりますので、詳細を知りたい方は下記ブログをご覧ください。

日本で初めて天神様を祀った交野ヶ原~桓武天皇の御心~

実は、京田辺市にも、「交野ヶ原」の地名のついた場所があるのです。

それが、京田辺市松井交野ヶ原。住所にもあるので、まんま、交野ヶ原であります。

そして、その松井交野ヶ原にもともとあった神社の名前が天神社。間違いなく、桓武天皇の天神祭祀である、郊祀を縁起とした神社であります。

今回、少しアップデートするのは、郊祀を行ったとされる、「交野柏原」の言葉について。

柏原=桓武天皇の別名

見出しに書いたことを解説していくだけの段落になるのですがw

調べていると、桓武天皇の別名は柏原帝というそうです。現在の伏見桃山にある、桓武天皇のお墓も、「柏原陵」と言われています。

なぜ、柏原という名前を付けられたのか、調べられる範囲ではわかりませんでした。

しかし、ここからある一つの推理をしたいと思います。

そのためには、時代は少し下りますが、京都で起きた町名の変化を紹介したいと思います。

洛中に「鶴山町」は1つで「亀屋町」は5つもある理由

〝鶴〟や〝亀〟など縁起のいい語を使った地名を『瑞祥(ずいしょう)地名というそうです。

洛中に鶴とつく地名は『鶴山町』1カ所に対して『亀屋町』は5カ所もあります。

変わった理由を表す歴史的事実があります。上京区油小路通の『亀屋町』が、元禄期以降に『鶴屋町』から改名しました。

これは、徳川幕府5代将軍・綱吉の娘『鶴姫』が誕生し、〝鶴〟を名づけに用いることを禁じたからだと言われています。

時の権力者が娘の名前を独占するがために、使用することを禁じる。あるいは、逆に、庶民が恐れ多いと思い、名前を変えてしまうこともありうるかもしれません。

こうした現象を、交野柏原に転用して、想像してみようと思います。

(仮説1)柏原=橿原、桓武天皇は神武天皇を意識して新しい時代を演出した?

柏原という名前が桓武天皇の別名になった理由と「交野柏原」がかかわりあっているかは不明ですが、許される範囲で仮説を立ててみましょう。

交野柏原の表記は続日本紀という歴史書に出てきます。これは、平安京遷都直前までの内容がまとめられています。

イメージ的には、平安京遷都の節目に、桓武天皇がまとめさせた歴史書といったところです。続日本紀の80年前には、天武天皇と持統天皇により、古事記と日本書紀が纏められています。逆に、日本初の歴史書が纏められて、80年程度で新しいものを作った理由が気になります。

桓武天皇は自らが、奈良の都を収めた天武系ではなく、天智系の久方ぶりの天皇であることを強く自覚しています。これもあくまで仮説ですが、続日本紀の編纂の狙いは、平城京に都があった一つの時代をパッケージにし、歴史に収めることで、長岡京・平安京へ新しい時代を迎えるのだという決意の表れだったのではないでしょうか。

そして、これも、仮説の域を出ませんが、偶然の一致かもしれませんが、柏原と橿原が非常に似通った文字を使っています。直接的な因果関係ははっきりしていませんが、橿原の方は、奈良県の橿原神宮の鎮座する地域のことで、初代天皇の神武天皇が即位した場所であるとされています。

もしも、桓武天皇が自らを天智系に戻る皇統であり、神武天皇以来の国興しを志、柏原という言葉を使っていたのだとしたらどうでしょうかね?

完全に素人の憶測にすぎませんが、交野柏原という言葉は、「新しい時代の天皇が即位した」というメッセージが込められているのもしれません。奇しくも、桓武天皇は第50代の天皇で、ある意味、節目ともいえる天皇です。

(仮説2)交野柏原の地名を返上して、足跡を残すため交野ヶ原という地名が残った?

そして、さらに進んで、仮説2。仮説1の桓武天皇が柏原という言葉を神武天皇を意識してつけた言葉だというのを前提とします。

桓武天皇の御代はよいかもしれませんが、桓武天皇が崩御し、次の天皇の御代になると、桓武天皇の名前を掲げた地名は何かと煙たがられたかもしれません。

「偉大な先帝の名前を関するなど言語道断」とか「都は平安京なのに、まるで、都気取りの名前」などとか。あくまで、推測にすぎませんが。

もし、交野柏原に天皇家に次ぐような一族、天智天皇に対する藤原家のような一族でもいれば話は変わったかもしれませんが、結局、交野柏原という名前はそれ以後、使われなくなります。

自分がその時代に生きていたらどうしたでしょうね。交野柏原という言葉を何らかの名残で残したかったかもしれません。もしかすると、交野ヶ原の由来は、柏原の柏をヶという表音文字(意味のない文字)に置き換えて、後世にその存在を残すためにあった名前なのかもしれません。

もしかすると、別記事でまとめた、交野ヶ原に類似する言葉が交野柏原ぐらいしか見当たらないというのも、上の2つの仮説を前提とすれば納得できるものです。

(入門編)交野ヶ原とは何なのか?

やはり、交野ヶ原のエッセンスは、郊祀の前後40年ほどに詰まっている気がしてきました。その80年ほどに、なぜ、それだけのことが詰まっているのかを、神話の世界・そして、現代から見つめることで、この交野ヶ原の日本遺産ストーリーは紡ぎだされていくのでしょう。

 

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