皆さん、受験シーズンになると、学問の神様である天満宮へお参りに行くことも多いのではないでしょうか。
学問の神様、菅原道真は“天神様”と呼ばれていますが、実は、“天神様”という言葉は3つの意味があることをご存知でしょうか?
1つ目は上にも述べた、学問の神様、道真公。
梅でも有名な北野天満宮や繁昌亭のある大阪天満宮、そして、北九州の太宰府天満宮などなど。
受験の際にはお世話になった方も多いのではないでしょうか?
「東風吹かば匂いおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」
2つ目は、日本の歴史上に出てくる天津神(あまつかみ)。
そして、3つ目が、天を司る神として、天神でございます。 この天を司る、いわば、支配している神様を日本で初めに祭ったとされるのが、桓武天皇です。
「794ウグイス平安京」でおなじみの桓武天皇は、奈良から京都へと都を移した天皇として教科書にも載っています。
桓武天皇は、784年、奈良から京都の長岡へ都を移した翌年の785年に当時、唐で行われていたのと同じ方法で、天神を祀っています。
これが、いわゆる郊祀(こうし)と呼ばれるものです。 その郊祀をおこなうのに選ばれた場所が「交野柏原」でした。
そうです。この交野ヶ原で行われたのです。ただ、具体的な場所に関しては諸説ありですが、交野ヶ原のどこかで行われたのは間違いがないようです。
では、なぜこの交野ヶ原で行われたのか。
詳しいことは、次の論文にございます。
民間伝承の地域的特性に関する歴史地理学的研究
-交野ヶ原における天体伝承を事例にー
上の中村論文によりますと、
1 長岡京の南に交野ヶ原があった。
2 交野ヶ原は長岡京を造成した集団や人物とも強いつながりがあったのではないか。
3 新しい都、新しい時代の秩序の礎として、交野ヶ原に色濃く残る天体伝承をコスモス構成のにしたのではないか。
また、論文にも語られていますが、郊祀は都の南で冬至の日に行われます。
星田妙見宮の佐々木宮司のお話では、冬至の日の太陽は1年で最も力が弱いとされています。
逆に言うと、そこから夏至に向かって右肩上がりに力をつけていく太陽でもあります。
その冬至の日の太陽の位置関係などからも交野ヶ原のどこで郊祀が行われたかを考える方も多く、中村論文でも考察が加えられています。
もしかすると、冬至の日は交野ヶ原ととても特別なつながりがあるのかもしれません。
今年、2017年の冬至は12月22日。皆様、夜な夜な交野ヶ原を散策されてはいかがでしょうか?
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