「交野」という言葉はどこから来たか?
以前、『(入門編)交野ヶ原とは何なのか?』の記事において、「交野ヶ原は人々の記憶に残っている『文化圏』である」と説明させていただきました。
ありがたいことに、ところどころ反響をいただいております。
その中で、少し説明しておかないといけないかなと思うのは、
「交野ヶ原は天の川や穂谷川に囲まれた交野台地のことを指すのであって、交野郡と一致するというのは、少々乱暴ではないか」というような内容です。
こういった議論自体が今までされてきていなかったのですが、ライムスターの『ガラパゴス』をかけてしまいそうになりますよね笑
そもそも、「交野」という言葉自体に少し考察を加えてみようと思います。
まず、「交野」という言葉ですが、現在は大阪府の交野市の名前として残っております。江戸時代には、今の交野市全域、枚方市の大部分、寝屋川市の一部を加えて、「交野郡(かたのごおり)」と呼ばれる郡でありました。この「交野郡」は諸説ありますが、702年頃には間違いなく、存在した地名であります。
さて、「交野ヶ原」という言葉ですが、私の調べうる限りでは、前回、続日本紀において、桓武天皇の郊祀の際に、「交野柏原」という類似表現がありますと書きましたが、もう一つ見つけました。
『大日本地名辞書』において、「片野の原は今 山田村牧野村川越村牧野町等にわたる。 天之川 ・穂谷川 ・舟橋川の三水其間を平行して、淀川に注ぐ。 卑底の丘陵淀川に起伏 す。即古の遊猟の地なり。島立原百重原渚岡原等の称あり」と記されています。恐らく、この「片野の原」の定義が、上の「交野ヶ原=交野台地」とされる方々の論拠になろうかと思います。
ただ、ここで気になるのは、「交野」ではなく、「片野」と表現されているところです。
つまり、「片野の原」は「交野ヶ原」の類似表現ですが、「交野」という言葉の初出はどうも、桓武天皇の項目のようです。
複数の表現から一つを選ぶことの意義
この「交野」という漢字ですが、歴史上、様々な表記がございます。「肩野」、「片野」、「片埜」、など多数存在し、中には現在も使い続けられている表記もあります。
そういえば、関西医科大学に加多乃講堂という名前もございます。
(参考url:http://www.kmu.ac.jp/info/campus/guide/index.html)
確かに、一つの地名に様々な表記があることはよくあることです。ただ、どの地名を使うかはその地名の歴史や意味合いを背負うことになります。例えば、かつて、大阪は「大坂」と表記されていました。ただ、「坂」の字が、「土に反る」と読めることから、縁起を担がれ、江戸時代の頃、人知れず変わっていき、明治時代から正式に「大阪」へと変更されたといいます。
「交野」という表記を選び取るにあたり、どういうストーリーや価値観を共有するのか。そういったところから、「交野ヶ原は人々の記憶に残っている『文化圏』である」という結論に行き着くことができると考えています。
余談ですが私がベンチマークしている渋谷に新しくできた渋谷ストリーム
https://shibuyastream.jp/
こちらでは、「渋谷ビオトープ」というステージイベントやってますね。ビオトープは「生命圏」なので、私たちの「文化圏」と似たようなイメージを勝手に感じています笑
話を戻しましょう。
そもそも、「片」と「交」という漢字は対極にあるような感じもするのですが、それを同じ表記として連綿と使い続けている時点で、大事な意味が隠されているような気もします。
この辺りは、また、考察を加えていこうと思っております。
天空の地上絵は文化圏の「旗じるし」
私たちが掲げている「天空の地上絵」はただ単に、交野ヶ原に星の伝承が残っていることを象徴しているだけでなく、そういった伝承が、この地に残ってきた、この土地の「特異性」を象徴しているものでございます。
かなり昔から人が住んでいて、文明があったと思われるこの地域に、夜空にまつわる伝承が絶えることなく、口伝や史跡の配置などに残っている理由はなぜなのか?
このあたりは、佐々木先生の講演をレポートした記事に詳しいですので、そちらをご覧くだいさいませ。
なんども申し上げますが、私たちのプロジェクト名などに使われている「交野ヶ原」は「文化圏」であるという定義を認識して抱ければ、ありがたいです!
降臨の森 2018年12月20日
大阪湾がすぐそこまで迫り、奈良盆地の大半が湖で、京都盆地も農耕地に向かない紀元前の大昔、交野ヶ原は当時の開拓者が注目した土地であったと考えています。茨木市の溝咋神社の祭神(溝咋の姫)とそこへ立春に交野の山(龍王山)から昇る朝日の位置関係(麓には饒速日を祀る住吉神社)から、古事記で大国主に海から現れた神が言われた「倭(この国?)の青垣の東の山」とは交野ヶ原と生駒山系のことだったのかもしれないと思い始めています。
各地の神奈備と平野にある神社などの共通した関係を交野の詩誌「石の森」に掲載予定です。見ていただけたら幸いです。
管理人 2018年12月31日 — 投稿者
降臨の森様
コメントありがとうございます。
「石の森」ですが。勉強不足で申しわけありません、初めて耳に致しました。
非常に興味深い視点でございます。交野市の図書館などでございますでしょうか?
配布先などございましたら、ご教示いただけたら幸いです。
降臨の森 2019年1月7日
「交野が原」「石の森」は、日本現代詩人会の金堀則夫氏が主宰されている詩誌です。「石の森」は年3~4回発行されていて、一般には出回っていないとのことですが、ネット上では見られるようです。「神奈備に昇る立春の朝日」という題で、字数が5千文字くらいで、分けて連載してもらう予定です。一回目は今月発行と聞いています。手に入ればお渡ししたいですが。
定説では「大和の青垣の東の山」と解釈し三輪山とされていますが、大国主が神(誰であるかはさておき)から啓示を受けたのが出雲(大山)でのことで、そして、「東」を立春に朝日が昇る方角と考え、さらに物部氏が九州出身であっても饒速日命(実際には誰であったかということもおいておき)が出雲出身であり出雲からの天孫降臨と考えれば、東の山は生駒山系であり、時期的に「倭の青垣」は交野ケ原であると考えることができると思います。
超古代に交野が原が大きな役割を果たしていたのかもしれません。
管理人 2019年1月15日 — 投稿者
降臨の森様
ありがとうございます。
インターネットで発見いたしました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kanahori/
また、拝見させていただきます。
弊団体の機関紙ですが、「交野ヶ原物語」も発刊しております。
枚方市の市史資料室にも保管していただいておりますので、よければぜひご覧ください。
https://www.facebook.com/pg/katanogaharaPJ/posts/
降臨の森 2019年1月17日
「交野ヶ原物語」見させていただきます。交野市の施設にもおいてあるといいですが。
「石の森」の内容のネット配信は停止されていて見られないようです。次は3月号に載りますが、さらに2~3号要しそうです。機会があればお渡しして見ていただけたらと思っています。