さて、涌谷町が日本遺産を取りました。(大事なので何度でも言いますね。ライムスターのB-BOYイズムバリに)
ちなみに、B-BOYイズム
最近、個人的な音楽ネタが多くて恐縮です(by 梨本さん)
その涌谷町と交野ヶ原のつながりを考えるうえで、どうしても外せない人物がいらっしゃいまして。それがこの方。
百済王敬福
その人でございます。
この方が涌谷町の黄金山にて、金を採掘し、東大寺の大仏の鍍金として、献上した、張本人でございます。
こういう時に、貴重な論文に巡り合うことができるのも不思議なものです。ちょうど、プロジェクト草創期に中村友恵さんの論文に巡り合ったのと同じ感じです。中村さんの先生にあたる佐々木先生にはNPOフェスタの講演会で講演していただきました。
で、今回、見つけたのが、下記の論文でございます。
博士学位論文
百済王氏の成立と動向に関する研究
A Study on the Formation and Historical Trend of
Kudaranokonikishiuji滋賀県立大学大学院
人間文化学研究科 地域文化学専攻
崔 恩永
2017 年 8 月
いや、もう何ってね、昔、森信三先生という哲学者の言葉にこういった言葉があるわけですよ。
『人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に。』
書物や文章、言葉との出逢いも同じでしょうね。
ナイスタイミングで、この論文を書いてくださった崔さんに改めて感謝です。
繰り返される問い「どうしてここに百済寺が?」
さて、ASAYANみたいなまどろっこしいことはせず、本論文の美味しいところの一部分から引用してみましょう。
奈良時代の百済王氏は、敬福の黄金貢進を中心に転換期を迎えた。敬福は、黄金貢進後の天平勝宝 2 年(750)5 月辛丑(14)に宮内卿になり、まもなく河内守が加えられた。この頃、百済王氏は最初に定着した難波(のち摂津国百済郡)から河内国交野郡に移住したことが知られている。したがって、百済王氏の交野移住と敬福の河内守の任官に何らかの関係があるのではないかと推定されている。
先行研究では、交野移住の理由について水害の被害をあげているが、考古学的に明確にしなければならない部分がある。ただし、敬福が宮内卿になって中央に進出した後、まもなく河内守を加えられたとすると、そこに彼の能力が必要であった任務があったと推定される。もし、それが百済王氏の交野移住であると理解すると、敬福は百済王氏の代表として自らの氏族が新たな地に安住させる役割を果たしたと説明することが可能になるだろう。
何かのブログの記事で語ったと思いますが、2018年の3月の百済王氏フォーラムのまとめのパネルディスカッションの冒頭に述べられた言葉が
なぜ、この地に百済寺が建てられたのかという最大の謎は残ったままなのです。
ということでした。
百済王氏の移住にために河内守になった敬福?!
崔さんの論文では、最後の考察の部分で、
「ただし、敬福が宮内卿になって中央に進出した後、まもなく河内守を加えられたとすると、そこに彼の能力が必要であった任務があったと推定される。もし、それが百済王氏の交野移住であると理解すると、敬福は百済王氏の代表として自らの氏族が新たな地に安住させる役割を果たしたと説明することが可能になるだろう。」
と仰っているように、百済王敬福の河内守任命と百済王の一族の交野移住は何ならかの関係があり、崔さんのまとめとしては、「百済王氏の交野移住、そのための敬福の河内守就任」という因果関係でまとめておられています。
権威の皆さんが結論づけられていないところに、可能な限り事実関係に即した推測を掲示していただいております。
さて、この崔さんのまとめと論文から、このブログのテーマに沿って行きましょう。
「今の交野ヶ原に関わりある全ての存在は、交野ヶ原の過去・今・未来とつながっており、そこにある「存在」を意識することで自分(現存在)を意識する。」
かみ砕くと
「交野ヶ原にゆかりのある人や物を通じて、交野ヶ原を思い出すことによって、自分の存在意義を見つめ直す」
壮大なる、チャレンジ「百済王敬福再考論」スタートです!