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【百済王敬福再考論・破】百済王敬福の人物像

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【百済王敬福再考論・序】百済寺を語る上での百済王敬福とその一族

ということで、今回は、前回と同じく、崔さんの論文を元にして、百済王敬福の人物像を探っていこうと思います。

百済王氏の成立と動向に関する研究
A Study on the Formation and Historical Trend of
Kudaranokonikishiuji

百済王敬福の人物像の手がかり

さて、崔さんの論文から、敬福さんの人物像や簡単な経歴を引用しましょう。

敬福は、彼の第三子である。敬福は、放縦で
規則にとらわれず、酒色がとても好きだった。感神聖武皇帝(聖武天皇)は、特に寵愛の優遇を加えられ、恩賞や賜わりものが多かった。当時、敬福のもとに官人や人民がきて、清貧のことを告げると、その度、他人のものを借りて望外の物を与えた。そのため、しばしば地方官に任じられても、家に余財がなかった。しかし、天性的に分別力があって、政治的な力量があった。天平年中に、従五位上・陸奥守になった。当時、聖武皇帝は、盧舍那の銅像を造った。鋳造は終わっていたが、鍍金する金が足りなかった。ところが、陸奥国から早馬をはせて、小田郡から出土した黄金900両を貢上した。わが国(日本)で、金が出たのは、このときにはじまった。聖武皇帝はとても喜んで、敬福に従三位を授け、宮内卿に転任させ、間もなく河内守を兼任させた。天平勝宝 4 年(752)、常陸守に任じ、左大弁に転任させた。つぎつぎに出雲・讃岐・伊予などの国守を歴任し、天平神護のはじめ、刑部卿に任じられた。薨じたときは、69歳であった。

(中略)

敬福に関する最初の記録は、天平 10 年(738)の陸奥介である。当時の敬福は41歳で、他の官人と比較してみると、かなり年齢になって記録にはじめて登場している。このときの位階は、史料にはみられないが、おそらく従五位下よりの下位であったと推定される。このことから、天平 10 年(738)段階の敬福は、百済王氏の一族の内でだけではなく、政治的にも目立つ人物ではなかったとみられる。

詳細の動向に関しては、論文の中に詳しいので是非、読んでみてください。

さて、人物として見たときには、借金をしてでも、困っている人にお金や物を渡したりする大旦那な性格だったのでしょう。それに加えて、酒や色を好むため、蓄財は少なかったとのことです。

崔さんの論文では、百済王氏が交野移住をするにあたって、百済王敬福が河内守として役割が必要だったと述べています。また、政治的能力が認められたのも、涌谷の地で黄金を産出したことにより、評価が昇ったとされています。

産金事業での敬福の動きに関して、崔さんの論文ではこう推定しています。

陸奥守である敬福が、上総国の採金技術者であった丈部大 麻呂を抜擢したように、朝廷に代わって必要な技術者をみつけ、都・東国から派遣されて きた技術者を適切な分野に配置するなど、産金事業に参加させたとみられる。加えて、彼 らのすべてが百済系ではない。したがって、これらの関係は、百済王族の子孫と百済系渡 来人という関係より、産金事業によって形成された関係と考えるべきだろう。

また、産金事業のためには、技術者以外にも多数の人員動員および多くの費用も必要 であった。このような問題を解決するため、敬福は東北地方の官人や在地勢力に協力を得 たと推定される。〈史料 5〉によると、陸奥介・陸奥守・陸奥鎮守副将軍などの職を歴任 して陸奥と密接な関係であった佐伯全成117と東国出身で鎮守判官従の大野横刀118、そして 百済系であり、陸奥に長期間補任された大掾余足人(のち百済朝臣足人と改姓) 119などが産 金事業の功績者とともに叙位されている。このことから、東国出身だけでなく、長期間の 補任で陸奥に滞在していた者たちも、朝廷に代わって産金事業を管掌していた敬福によっ て動員されたと思う。加えて、余足人は上記の百済系技術者と同じように百済系というよ り、陸奥の官人として参加したとみられる。

(中略)

したがって、敬福は渡来系技術者の他にも、陸奥の官人や在地勢力などの協力が必要 であった。特に、在地勢力との連携を通じて、彼らの支配下にある人々を動員し、産金事 業を進行しなければならなかったことを想像できる。

引用が長くなっており、恐縮です(by 梨元さん)

いわゆる渡来系の技術や軍事力などでの抜擢ではなく、国家の一大事業を資金調達から人材調達、総合的に管理できる実務家として、見いだされ陸奥介へ派遣されたと想像されています。

稀代の人たらしだった百済王敬福?!

ここからは、ブログお馴染みのイメージで空想でございます。

敬福さん、かなり豪快な人物でありながら、いわゆる「人たらし」だったのではないでしょうか。

産金という事業に対して、私腹を肥やすどころか、私財なげうって、それどころか人から借金してまで打ち込んでいたわけです。ある意味、クレイジー(誉め言葉)な人物だったのかもしれません。

逆に言えば、陸奥介に抜擢されたのは、朝廷側もギャンブルだったのかも。前例がない仕事に対して「やったことありません!」と間髪入れずに言う人間には任せることはできません。敬福さんはそんなこと言う人物じゃなかったのかもしれませんね。

一杯ひっかけて、一大事業の責任者を打ち出されたときには、「ま、やれるだけやりましょか」ぐらいで引き受けたのかも。年齢41歳。今でいえば厄年。厄落としがてら人の為に一肌脱ごうかという粋の分かる人物やったのかもしれません。

そういう人物が、どうして、百済王氏の交野郡移住の際に、河内守の役目を仰せつかったのか。

これのヒントは、禁野の女神のブログを絡めて考えてみようかと思います。

禁野に眠る古代の女神ミステリー NO.2 

 

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