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【百済王敬福再考論・JO】明信が時代に愛されたわけ

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【百済王敬福再考論・急】カヤノヒメから敬福・そして明信へ

いや、もうね、壮大なテーマになりそうです。明信編、どうやって書こうかなと思ったのですが、もう、色々なところにエピソードが繋がりますから。

まず、JOでは、おおよその流れを語っていきましょう。

明信はなぜ従三位まで上がれたのか?

時代まつりでの百済王明信

百済王氏の中で、従三位という中央貴族のランクまで上がったのは、3名のみで、敬福以後は、明信のみでした。そして、明信以降、百済王氏は中央政界から遠ざかっていくわけです。

どうしてこうなったのか。ASAYANみたいなまどろっこしいことはしません。もう、早速、崔論文のまとめのところから、引用しましょう。

桓武朝の百済王氏は、強力な律令国家の形成および桓武天皇の政権強化のため、百済国王の子孫として『和氏譜』を保証し、外戚としての役割を遂行したと評価することができるだろう。このような過程の中では、寵愛していた明信との関係、交野行幸と百済楽舞、百済王氏の女人たちとの関係形成などが多様にからまっていた。しかし、百済王氏は外戚として認められたにもかかわらず、より強力な政権形成のため、それに当たる政治的実権と影響力は付与されていなかったということが特徴である。

色々なキーワードが出てきて、もう、パニックになりそうなんですが笑

えーとですね、ミスリードを恐れずにまとめさせていただくと

桓武天皇の頃、桓武天皇の政権強化のために、天皇の親戚一族(外威)として、百済王氏を重用しました。その中でも、寵愛されたのが、女官であり、藤原継縄の奥さんだった、百済王明信。

しかし、藤原継縄は左大臣まで任用されるが、百済王氏からは明信以外に中央政界に任用された人物はいなかったのです。これはどういったことかといえば、「百済国王の子孫として『和氏譜』を保証し」たという部分なのかと思います。

『和氏譜』って何?

和気清麻呂のウィキペディアより引用します。

延暦7年(788年)には中宮大夫に任ぜられて皇太夫人高野新笠にも仕え、その命令を受けて新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し『和氏譜』として撰上し、桓武天皇に賞賛されている。

和氏譜というのは、「和氏(やまとうじ)」の系譜のことです。この和氏というのが、百済国を収めていた百済の武寧王が渡来し、日本の氏族となった一族のことです。

お察しの良い方はわかるでしょう。桓武天皇の母親が百済系だったのです。そして、桓武天皇の父親であり、高野新笠のご主人だった、光仁天皇は元々、白壁王といい、皇位継承権としてはかなり低い順位の方でした。

どうして、この方に皇位継承が行われたかと言えば、その前の天皇であった、称徳天皇(孝謙天皇)が寵愛した、道鏡事件とつながってくるのです。そして、この道鏡事件で有名な宇佐八幡の託宣を確認しに行ったのが、和気清麻呂であり、和氏譜を編纂した人でもあります。

時代に愛され、時代に翻弄された百済王明信

ここまでを簡単にまとめますと、百済王明信が登用された時代というのは、日本史の中でも結構な混乱期だったということです。

基本的に、奈良の都は天武天皇の血筋の都であり、その最後が、称徳天皇だったわけです。

そして、道鏡事件のために、6代ぶりに天智天皇の男系男子である光仁天皇へと皇位が継承された。

これは、日本だけでなく、権力というのはそれ自体の正当性が必要です。その正当性を高めるために、光仁天皇の息子にあたる桓武天皇は、自らの母が百済王の血を引くことを利用したのでしょう。

日本で初めて天神様を祀った交野ヶ原~桓武天皇の御心~

そのためには、百済王氏の女官で高位の人がいる方がよかったと、桓武天皇は考えたのかもしれません。

このあたりを3部作で掘り下げていってみましょう。

 

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