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【百済王敬福再考論・8】道鏡事件と交野ヶ原

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【百済王敬福再考論・JO】明信が時代に愛されたわけ

百済王敬福再考論の、第2シリーズ、明信のことを語る上で、触れておかないといけないのが、道鏡事件のことです。

 

道鏡事件について

道鏡事件の要諦は、下記の産経記事に簡潔にまとまっておりますので、ご一読を。

「道鏡を天皇にすべし」突然の“神託”の真偽は…一介の僧が国家を乗っ取りかけた大騒動の顛末(産経新聞)

より簡潔にまとめると、道鏡は河内国弓削(今の八尾市の弓削)の出身の僧侶で、孝謙天皇(称徳天皇)の看護僧だったといいます。女帝であった孝謙天皇の病を秘法で直し、天皇の寵愛を受けたそうです。

女性と男性の関係なので、後世の下世話な話も出てきますが、私は孝謙天皇はもっと現実的な方だったと思っております。

というのも、道鏡が信頼を固めたのは、恐らく、恵美押勝の乱です。

その乱の詳細は下記を参照ください。

道鏡の深謀遠慮 女帝と“ねんごろ”になり破格のスピード出世、一介の僧が「太政大臣」に上り詰める(産経新聞)

ただ、ここで、気になるのは、物語の筋があまりに一方が欲深で悪かったように「描かれている」ところです。

私たちが過去を解釈する上で、大きな手掛かりとするのは歴史書。ただ、歴史書もまとめた人の解釈や時代背景により、色合いが変わることが多いのも事実です。

藤原氏と平安京を正当化するための脚色?

両論併記というわけではないのですが、朝日新聞では下記のような記事を見つけました。

【アーカイブ】道鏡、悪僧じゃなかった? 近年再評価の動き(朝日新聞)

上記有料記事ですので、全文を読むことはできませんが、紹介されている中西教授の講演を聞きに行った人のブログを見つけました。

道鏡事件はなかった?

要約すると、道鏡事件が記載されている「続日本紀」自体が、藤原氏庇護下の天智天皇系(光仁天皇・桓武天皇以降の平安京政権)を正当化するためにまとめられているため、脚色が含まれているとしています。

そして、称徳天皇の真の目的は、

祭政一致の仏教国家を目指した。これが道鏡に皇位を譲ろうとした動機である。

と上記ブログでは記載されていました。

血筋や皇位継承の問題を、神仏融合という形式で一気に解決しようとしたのでしょう。そういった動きを伝えることなく、男女の色恋での問題として、道鏡を過度に悪人に仕立て上げた藤原氏には何らかの意図を感じずにはいられません。

実際、奈良の寺院は平安京への移転を拒否されており、寺院勢力を南都に押し込めたようです。その際に、道鏡のような僧侶の政治干渉は一つの大義名分となったでしょう。

桓武天皇の郊祀に繋がる権力の正当化問題

JO論でも述べましたが、称徳天皇(聖武天皇の娘)から、光仁天皇に皇位が継承されると、天武系の血筋から天智系の血筋へと皇統が変化しました。

実際、崔論文でもしきりに、桓武天皇の血筋の正当性を高めるという目的が引き合いに出されます。母方が百済王家の血筋であることも「小中華思想」として、桓武天皇の血筋の正当化に使用したといいます。そこで、徴用されたのが、「和氏譜」であり、その「和氏譜」を編纂したのが、道鏡事件で、宇佐八幡の信託を再び持って帰ってきた和気清麻呂です。

そして、その百済王の一族が拠点としていた、交野ヶ原が、陰陽道に基づいて、天帝に即位を伝える、郊祀の地に指定された。

百済王敬福の河内守補任がおよそ、750年頃。桓武天皇による1回目の郊祀が785年。この間、30年ほど間がありますが、初めは百済王氏の氏寺だったものが、外部環境の変化で、官寺としての性質が必要になったのかもしれません。その中で、百済王明信が何らかの理由で、一族を代表して従三位まで登ったというのが、通りのよい推定かと思います。

これであれば、百済寺の創建が敬福から始まり明信で完成したという推定も裏付けが取れそうです。

道鏡が物部氏の末裔だった問題

で、もう一つの気になる点は、道鏡が物部氏の末裔だったということです。

ご存知の通り、交野ヶ原も物部氏が開発し治めていた土地であり、物部氏の祖神である、ニギハヤヒが磐船神社に鎮座しておられます。

ニギハヤヒはニニギノミコトに国を譲り、物部氏は蘇我氏との攻防で敗れ、衰退し、道鏡は奈良の都を動乱に貶めたとされ、天武天皇系の皇統の幕引きを演出した。

皮肉にも、天智天皇系の皇統の始まりの地として選ばれたのは、物部の地であった、交野ヶ原。

ただ、この歴史を「敗者の歴史」として、描くことはあまりに単純すぎではないかと思います。時代は人々に役割を求め、その役割を無心に果たすことが「天に仕える」ことだとすれば、私心無く天に仕えた人々のクロスロードが、交野ヶ原なのかもしれません。

さて、第2部では、百済王明信が桓武天皇に重用された背景について述べました。明信編の第3部では、こういった背景を踏まえて、もう少し未来を見た話をしてみようかと思います。

余談:再評価され始めた道鏡

上記のような意見もあり、道鏡を再評価しよういう動きも、これまた、物部の本拠地であった、八尾から動き出しております。

https://www.facebook.com/dokyo2019/

河内の国ってそういうところなのかもしれないっすね。

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