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さて、百済寺に纏わり、全6作でお送りしてきました、「百済王敬福再考論」。最後、「Q」だろうなと思った方、いらっしゃいますか?笑
あえて、「Q」は欠番にし、「D.C.」にいたしました。読み方は「ダカーポ」、楽譜に書かれていると「繰り返し」という意味です。
8編では、崔論文の内容と道鏡事件との関連から、交野ヶ原の百済王氏が平安京へ遷都する、天智天皇系の政権を血筋の面から正当化する一族として、重用され、百済寺の役割も一氏族の氏寺から、国の祭祀をできる官寺と、変化していったという崔論文の結論を補強しつつ、仮断定しました。
D.C.をつけた理由は、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という皇帝ビスマルクの言葉(本来は、愚者は自分の失敗経験から学び、賢者は他者の失敗経験から学ぶという意味だそうですが)よろしく、交野ヶ原の未来を見据えるにあたり、百済王氏という確実にここにいた氏族の歩みから学びたいというねらいです。
「ここにいたこと」
2011年3月11日といえば、東日本大震災の発生した日です。あの災害はまさに、多くの人の運命を変えました。私もその当事者の一人です。
本来は4月に発売される予定だった、当時、国民的アイドルへの階段を歩み始めたAKB48のオリジナルアルバムですが、震災でスケジュールがつかず、6月へ後ろ倒しとなりました。
また、AKB48が毎月、被災地へ慰問公演に行く、「誰かのためにプロジェクト」も始まり、このアルバムの売上の一部も義援金に当てられました。
この訪問頻度は減っていきましたが、今年の3月も慰問公演が行われており、続いているプロジェクトです。
そのアルバムのタイトルが、
「ここにいたこと」
ふと、このタイトルを見たとき、当時、ライフワークで読んだハイデガーの言葉とリンクしました。
ハイデガーは「これはなにか」の問いではなく、「なぜここにあるのか」という問いが大事だと説きます。概して、西洋の学問は、物質の性質や細分することに深掘りしていき、その存在がなぜここにあるのかという存在に対しての問いを設定してこなかったとしています。
その考え方を交野ヶ原に当てはめた
内容は下記の「交野ヶ原とは何か?」の記事に詳しいので、是非ご覧ください。
百済王氏が「ここにいたこと」から私たちは?
さて、未来に向けた話をしましょうか。
百済王氏が「ここにいたこと」はまちがいないようです。ただ、その足跡は百済寺跡の遺構が残っていることと、その敷地内に江戸時代に開拓された際に、創建された百済王神社ぐらいです。
ただ、百済の民が大陸から渡ってきた移民でありながら、「和氏(やまとし)」という名前を与えられ、この国に同化していく中で、時代の大事業だった大仏造営に必要な金を日本で始めて見つけ、その後は、新皇統の正当性の強化に尽力した。
前回、「交」と書いて、「かた」と読むことの特異性について述べました。「片」と「片」が「交」わる地。それが交野ヶ原なのかもしれません。交わり一体となれば、この地を離れる。一種のラボ・あるいは媒体のような土地なのかもしれないというのが、百済王氏が「ここにいたこと」から考える私の現時点での、一つの結論です。
未来を語る資格があるのならば
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
もし、未来を語る資格を私に与えてくれるのであれば、少し私見を。
交野ヶ原が歴史の中心に出てくるというのは、どうも日本ののっぴきならない時期なのかなと思ったりします。
これは、広く、河内の国にもいえることかもしれません。
しかし、それは悪いことではなく、時代のつなぎ目、バイパス、一つの時代を作り上げる。
そんな大事業がまた行われる際、この記録がその一助になればと思います。
ここで宣伝「交野ヶ原物語VOL.8」は百済王氏特集
ここまで頑張って書いてきたのは、この内容のテーマを模索するためだったんです笑
ご存知のとおり、日本初の産金地として、宮城県の涌谷町が日本遺産に登録されました。
その涌谷町の方からも寄稿をいただく予定の、交野ヶ原物語VOL.8は11月上旬発刊予定です!
乞うご期待!