「交野ヶ原の歴史って、中世になると、少なくなるよね」
誰と話していた時か、忘れてしまいましたが、確かにとうなずいたものです。両市の年表などを見ていても、ダイジェスト版ではストンと平安中期~戦国時代ぐらいまでが抜け落ちている。
そこで、「交野ヶ原の中世」というテーマで、これまで、蓮如上人と楠木正儀を取り上げました。
今回の記事は人物ではなく、道に注目したいと思います!
高野山と東寺を結んだ東高野街道
東高野街道に関しては、下記の大阪府の歴史街道のサイトにも説明がありますが、かいつまんで言えば、「京都の東寺から石清水八幡宮を通り、和歌山県の高野山を直線で結び、河内の国を南北に縦断する道」です。
大阪を縦断している地図を転載しておきます。
さて、ここでキーワードとなるのは、東寺と高野山です。
いずれも、空海が開祖である真言宗の本山であり、その二つを結んでいるということは、まさに、東高野街道は京都から、高野山へお参りするのに通る参道でした。
ちなみに、交野ヶ原と弘法大師のことは、星田の八丁見所で、「空から星を降らせたスーパースター」として論じております。
ちなみに、嵯峨天皇から、高野山を賜った10日後ぐらいに、星田で星を降らせています。不思議な巡り合わせです。
高野詣を行った時の権力者たち
さて、高野山に参ることを「高野詣」といったようで、平安時代から室町時代まで、盛んに行われていたようです。
高野山のオフィシャルページの年表から、代表的な人物を抜き出してみましょう。
883年 陽成天皇
900年 宇多天皇
1023年 藤原道長
1088年 白河上皇
1156年 平清盛(?)参ってはいないのかも。
1192年 日蓮上人・法然上人(修行として)
1223年 北条政子(寄進)
1392年 足利義満
ざっとこんな感じです。あえて、中世ということで、戦国時代は外していますが、それぞれの時代の権力者たちがしきりに高野詣をしていたそうです。
特に、平安後期は末法思想も相まって上皇の行幸の回数は多かったそうですが、その件は別段に譲りましょう。
また、平清盛は大塔の再建、北条政子は寄進としていて、参ったとは書かれていませんが、おそらく、人の流れや物資の流れを高野山に作っていただろうと思われます。
その証左として、鎌倉時代末期には庶民に至るまで、高野詣が盛んになったとされています。
都と聖地を結んだ街道沿いの町
時の権力者たちも、拘った高野詣なので、庶民や武士の往来も増えれば、文献がないのですが、少し想像力を働かせると以下のことが言えそうです。
① 道を維持管理するための人や物資の往来
② 高野詣を行う権力者を接待する宿のようなものの設置
③ 上記の人々を支えるための商業・物流業の発達
このあたりは、文献がなくても想像で言ってもいいあたりかなと思います。現に、富田林の寺内町は室町時代末期には、南河内随一の商業地であったと言われますし、時折氾濫する淀川沿いを歩くよりは、距離も短く、日数が計算できたでしょうし、安定した産業にはもってこいだったのだと思います。
その都沿いの町には、人・モノに加えて、情報も多く流通したでしょう。それは蓄積されることなく、時間とともに流れていったのでしょうか。それとも、その後、応仁の乱に始まる戦乱の世の中で露と消えていってしまったのか。
いかんせん、中世というメガネを通じて、交野ヶ原を見てみると、やはり、「交差点」のような機能を果たしているのではないかと改めて思いを強めてしまいます。