個人的にですね、禁野の女王シリーズは気に入っておりまして。
vol.3は創作の小説みたいな形式にしようと思っていたのですが、ちょっとおもしろい事実を見つけててですね。そこから話を広げていきたいと思います。
枚方を作った漢人たちが揖保郡へ
今の兵庫県にあたる、播磨国で、1300年ほど前に編纂された、『播磨国風土記』に枚方に関して登場します。
その内容に関して、下記サイトより、引用いたします。
http://www.harima-united.jp/column/climate/contents000195.html
播磨国風土記には「土地は中の上です。枚方と名づけたわけは、河内国茨田(まむた)郡枚方の里の漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやってきて、初めてこの村に住みました。そこで枚方の里といいます。佐比(さひ)佐比と名がついたわけは、出雲の大神が神尾山にいて、出雲の国の人がここを通るとき、10人の内5人、5人の内3人を遮断しました。そこで出雲の国の人々が、佐比(サヒ:鍬などの農具)を作って、この神を祀ったのですが鎮まりません。その理由は、比古(男)神が先に来て、比売(女)神が後から来ましたが、男神は、鎮座できずに去って行きました。このため、女神が恨んで怒っているのです。その後、河内国茨田郡枚方の里の漢人が来て、この山の麓に住んで、女神を敬い祀ったので、神の怒りが鎮まり、この神がいたことから名を神尾山といいます。また、佐比を作ってこの神を祀った所を佐比岡と名づけました。」
これですね、播磨国風土記が編纂されたのは、おおよそ、奈良時代前半(西暦710年~720年)と言われていますが、この時は、まだ、百済系の一族は、交野ヶ原に転居していないはずなのです。
詳しい推敲は下記ブログをご覧ください。
そうすると、『播磨国風土記』に登場する、漢人を百済系と決めるのは時代背景的に「どうなの?」と私は思うわけです。
それよりは、この禁野車塚古墳を築造して、カヤノヒメを信仰していたであろう部族が、この漢人に当たるのではないかと推測するわけです。
揖保郡へ行った漢人は女神を鎮めた
ここでもう一つ、キーになるのは、枚方から揖保郡へいった漢人たちが、女神を敬い祀ったということ。
禁野車塚古墳に祀られている人物が女性であるらしいというところから、ノヅチ伝承と絡めて、カヤノヒメを祀っているのではないかと考えたのですが、意外とここが紐づいてくるのではないかと思うのです。
ちなみに、カヤノヒメの夫は大山津見神(おおやまつみのかみ)という山の神様で、カヤノヒメはこの夫に抱かれて、山を春夏秋冬彩る、草の神であるとされています。
そうすると、この漢人たちは、やはり、カヤノヒメを信仰していて、彼らが持つ技術や祭祀方法を頼りにされ、播磨国に移転したのではないかと。
【カヤノヒメ】
日本神話の草の神様。野椎神(ノヅチ)とも呼ばれる。春夏秋冬山の神オオヤマツミに抱かれて様々な色に染まるという。 pic.twitter.com/aydZauntCz— 歳 (@raden108s) January 7, 2018
702年茨田郡から交野郡が分かれたことも影響?
そして、目線として、忘れてはいけないのは、702年に交野郡が茨田郡から分離していることです。考え方は色々とあると思いますが、いわゆる、「河内国茨田郡枚方里」を漢人がどんどんと開発していたとすれば、禁野車塚古墳から、生駒山の方へと向かって開発が、200年ぐらい進み、「枚方の里」というレベルでないぐらい土地が広がり、「交野郡」として分離されたのではないかと。
そのタイミングでもしかすると、カヤノヒメを信仰していた漢人たちが播磨国へと移っていったのではないかと。。。
そうして、主人が不在となった交野郡のあたりを、金を見つけた百済王敬福に聖武天皇が与えたとなれば、筋の良いストーリーにはなりそうです。
まとめておくと、交野も枚方も元々、一つの文化圏だったといえそうですね。それを、どのような言葉で、どのようなことを表現していくか。この辺は、語る人がどういった背景を持っているかによって変わりそうですが、少なくとも、カヤノヒメに関しては、交野ヶ原の重要なファクターとして、鎮座していただいていてよいと思います笑
ちなみに、僕の中での、カヤノヒメのCVは早見沙織様でございます。
このお二人の声と同じですw
ということで、vol.4に続くのか続かないのかは、こうご期待w