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崔さんという方の2017年に発表された下記論文より、徐々に交野ヶ原にゆかりのある過去・今・未来をつなげたミステリーをたどって言っております。
前回は、百済王敬福の人物像によっていき、結論としては、前例のない産金という一大事業に抜擢された、豪快な「人たらし」です。
百済王氏の成立と動向に関する研究
A Study on the Formation and Historical Trend of
Kudaranokonikishiuji
本ブログでは、どうしてその人物が、百済王氏の一族が摂津から、河内の交野郡に移住するにあたって、河内守を仰せつかったのか。この点に関しては、崔さんの論文でも、「因果関係があったと想像」するにとどめておられるので、ここからは作家の出番でございます笑
読み進めるうえで、下記の弊ブログの記事も参照にしてまいります。
物流起点を治めた、カヤノヒメとその仲間
上記には、禁野車塚古墳には古代の女神が眠っており、その名は、「カヤノヒメ」であり、仏教説話との接合により、「ノヅチ」と名を変えていったと仮定しました。
で、本当はvol.3に取っておこうと思ったのですが、少しネタバレで、この川沿いにある墳丘古墳は、港の灯台や物見櫓の役割もはたしていたのではないかと考えるわけです。
というのは、
Flood Maps
http://flood.firetree.net/
というサービスを用いて、簡易的に海水面を上昇させたら、現在の地図でどこまでが水につかるかというのをシュミレーションできます。
それで、13mほど海水を上昇させるとこんな感じ。
ちょうど、画面中央、にある緑色長方形の空き地が、禁野車塚古墳です。
ご存知の通り、大阪平野というのは、5世紀以降、仁徳天皇による治水工事が行われるまでは、河内湖でした。さらにさかのぼれば、河内湾でした。
禁野車塚古墳がおおよそ、3世紀末~4世紀初頭の築造と考えられており、仁徳天皇の治水よりも150年~200年は遡れます。
そういう意味では、この場所はヤマト王権の西の出入り口的場所だったのではないか。そして、禁野車塚古墳に眠る女神は、その物流地点を司った部族の長だったのではないか。
これが、本当はVOL.3に書こうと思っていた内容だったのですが、先にネタバレ笑
そして、ここが物流起点だったとすれば、力仕事も多くあるので、恐らく、大きな集落があったであろうと推測されるわけです。
カヤノヒメの仲間たちはどこへ消えたのか?
仮に、この部族を「カヤノ族」とでもしましょう。しかし、後世の歴史に、その「カヤノ族」が出てこないのはどうしてか。
考えられる最大の理由は、海水面が大阪平野へ後退し、港としての立地の強みがなくなり、集団はどこかへ移り住んだのかもしれません。
そこで、再び、中村好恵さんの論文に戻ると、交野ヶ原についてまとめていただいた年表がございました。
禁野車塚古墳が築かれてから、5世紀~7世紀後半まで、どうやら、交野山の麓の方へ、交野ヶ原の文明は移動していたようです。この交野の物部氏が「カヤノ族」と=かどうかは検証の仕様がないですが、天女信仰とつながる機織を営んでいたということは、女神を祀る習慣はもっていたのかもしれません。
すると、見えてくるのは、禁野車塚古墳の付近はかつて栄えていたけれども、百済寺が築造される頃は、さびれていた、「忘れられた場所」だったのではないでしょうか?
交野郡へ百済王氏が移り住む際、天皇家やパトロンが応援する義理はないでしょうし、資金、労働力、時間が必要だったはずです。天皇は「カネはないけど、土地ならいいよ」という条件で、交野郡への移住を許可している可能性もあります。
で、その代わりといっちゃなんだけどというノリで、産金事業を自前の人たらしで成し遂げた敬福に河内守という地位を与えて、交野郡で色々と動く肩書を与えたのかもしれません。
カヤノヒメから敬福、そして明信へ
ただ、崔さんはさらに興味深い考察を加えてくださっています。
ところで、敬福が河内守に補任された期間が短く、百済寺に関す
る記録がないので、百済寺の創建時期を明信の段階とみる指摘もある104。これによると、百済寺が延暦 2 年(783)6 月乙卯(10)条の寺院提案政策によって官寺的な性格を持つようになったことも、明信の努力によるものというのである。このように創建時期についてさ
まざまな指摘があるが、百済寺が敬福のときに建設をはじめ、明信のときに完成されたのではないかという見解105に説得力があると理解したい。
実際、敬福の河内守の捕任期間は3年ほど。創建時期についても学説によりけりなところもあり、崔さんは「敬福の時に建設が始まり、明信の時に完成したのではないか」という説を掲示してくださっています。
カヤノヒメの話と合わせると、こういう仮説が生まれないかと思います。
百済王氏がうつってきたころはかつて、物流の基点として栄えた土地も、今では荒れた土地であった。そこに住居やインフラ整備のために必要な資金や人材の調達をしなければならず、まちづくりから始める際、敬福が河内守という役割を捕任した。しかし、やるべきことも多く、氏寺の創建には20年~30年過ぎた、明信の頃に完成した。
そうなると自然に、「百済王明信」とは誰なのかという論になっていきます。スターウォーズも代替わりするように、本論も代替わりしていきましょうかね。