さて、年末に書かせていただきました、禁野に眠る古代の女神ミステリー。ノヅチという蛇の神様とされていますが、元々は野に咲く植物を統べる女神、カヤノヒメ。
Twitterで拾った、美しいカヤノヒメを見つけたので、リンクを張らせていただきました。
【カヤノヒメ】
日本神話の草の神様。野椎神(ノヅチ)とも呼ばれる。春夏秋冬山の神オオヤマツミに抱かれて様々な色に染まるという。 pic.twitter.com/aydZauntCz— 歳/BOOTH通販中 (@raden108s) 2018年1月7日
その記事は下記リンクとなります。
さて、含みを持たせた書き方で終わっておりましたが、この禁野車塚古墳を調べてみるととても、不思議なことがわかりました。
その前に、まずおさらい。
交野ヶ原にとって、冬至はとても特別な日
いくつかの記事でも取り上げたように、冬至というのは、交野ヶ原にとって、特別な日の一つです。
例えば、下記、記事でもご紹介した、桓武天皇の郊祀。新しい都の新時代の天皇として、冬至の日の日の出に対してお祀りをされました。
そして、冬至の日というのは、易経においても特別で、卦の陽が戻ってくる日ということで、「一陽来復」と言われています。不思議なことに、対極である夏至にはないんですね。
冬至の日、どこから日が昇るかというのは結構大事なキーワードだったりするわけです。
さて、その冬至の日をキーワードにすると、一つの神社とある山が特別な関係になります。
冬至の日、日の出が交野山から昇る機物神社
天空の地上絵で、おりひめの位置である機物神社から冬至の日の日の出は、交野山の観音岩の上から出てまいります。
機物神社オフィシャルサイトより引用
特別の日の特別な現象とは、冬至の日に、
機物神社の境内から交野山に重ね合わされた日の出が見られることです。
機物神社の創建年代自体は明らかになっていませんが、恐らくは冬至の日の郊祀を意識した配置なのでしょう。
そして、なんと、その延長線上には禁野車塚古墳が位置するのです。
ノヅチ・秦者・交野山
弊プロジェクトメンバーが作成した図を皆様にご覧いただきます。
交野山と機物神社の関係性は、オフィシャルサイトでも知られていますが、禁野車塚古墳もその線上にあるのは、今回初めて明らかにしたことだと思われます。
機物神社のある地域は、倉治(くらじ)という名前ですが、古墳時代には、交野市の地名由来資料によるとは古墳時代後期の古墳群や山中に
造られた寺院跡などが発見されているそうです。
禁野車塚古墳は古墳時代の前期〜中期頃と言われているので、年代的にはずれております。
ただ、大型古墳が山や丘といった自然の形状を利用して作られていることに比べると、この禁野車塚古墳は盛土を行い、人工的に丘を造成しています。
このことが、何を意味するのか。
最終章となる、第三弾はこういった事実関係から、大胆な物語を描き出してみたいと思います。
皆様、ぜひ、お付き合いください!
杉山 雅彦 2019年5月10日
前回も、コメントさせて頂いた宮之阪に住む杉山雅彦です。職場が交野星田にある特別養護老人ホーム…。職場の特養の近くには星田妙見宮、特養の立っている土地が星田旭縄文居住区…。そして、前回知った禁野車塚古墳、メチャクチャ、ロマンを感じます。次回の記事も楽しみにしてます。ぜひとも交野ヶ原が日本遺産プロジェクトに!
管理人 2019年5月10日 — 投稿者
杉山様
いつもコメント、ありがとうございます。
星田旭縄文居住区も非常に興味深い史跡ですよね。
先日、朝日新聞で興味深い記事がございました。
「格差も戦争もない」本当? 縄文時代、見えてきた実態
この記事によると、縄文時代は狩猟や採集中心だったが、食料資源などが尽きると集落ごと移動したり、あるいは他集落との争いがあったようですとのことです。
ふと思い出したのですが、星田は「干田」という表記もあったと。
というのも、はげ山で木がなかく、土砂の流れが激しく水はけがよかったため、その名前がついたと聞いています。
では、どうして、はげ山になったのかと考えれば、古い時代に資源を使い果たしてしまったのではないか。
半分、フィクションでお粗末でございます。
是非、日本遺産を目指して頑張ります! 応援、とても嬉しく感じます!
今後も、是非ご覧ください!